粉と酵母の科学 プログラマーがパン作りに魅せられた理由
粉と酵母の化学反応に惹かれて
私の日常は、コードと向き合う時間が大半を占めています。論理を組み立て、テストし、エラーを修正する。画面の中のデジタルな世界で完結することがほとんどです。そんな私が、休日になると粉まみれになり、オーブンの熱気と格闘するとは思ってもみませんでした。パン作りとの出会いは、ほんの些細なきっかけでした。コロナ禍で自宅時間が増え、何か新しいことを始めたいと考えた際に、たまたま目にした「ホームベーカリーで作る簡単パン」という記事が目に留まったのです。最初は機械任せの手軽さから入りましたが、次第に「手でこねたらどうなるのだろう」「違う粉を使ったら?」と探求心が芽生え、手ごねパンの世界へと足を踏み入れることになりました。
パン作りの具体的なプロセス
パン作りは、基本的に「材料を混ぜる」「こねる」「発酵させる(一次発酵、ベンチタイム、二次発酵)」「成形する」「焼く」という工程を辿ります。使う材料はシンプルで、主に小麦粉、水、酵母、塩、そして砂糖や油が加わります。
例えば、食パンを作る場合。まず強力粉、水、酵母、塩、砂糖などをボウルに入れ、全体がまとまるまで混ぜます。その後、台に取り出してひたすら生地をこねます。最初はベタベタしていますが、こね続けるうちにグルテンが形成され、つややかで弾力のある生地になっていきます。次に、生地を休ませる一次発酵。温度と湿度を適切に保つことで、酵母が糖分を分解し炭酸ガスを発生させ、生地が膨らみます。これが文字通り「生きている」感覚で面白い部分です。発酵が終わったらガス抜きをし、分割して少し休ませるベンチタイム。その後、食パン型に合うように成形し、再び膨らませる二次発酵を行います。最後に、オーブンで焼き上げれば、あの香ばしい焼き立てパンが完成します。
この工程一つ一つに意味があり、温度や湿度、材料の分量が少し違うだけで、焼き上がりは大きく変わります。まるで、コードの一文字が全体の挙動に影響を与えるように、パン作りも非常に繊細なプロセスなのです。
科学と感覚の融合に魅了される
なぜ私がパン作りに深くハマったのか。それは、パン作りが非常に科学的でありながら、同時に感覚的な要素も非常に大きいからです。
プログラミングの世界では、論理と仕様が全てです。入力に対して出力が決まり、再現性が高い世界と言えます。しかしパン作りでは、同じレシピ、同じ材料を使っても、その日の室温や湿度、手の温度、粉の状態など、様々な要因が影響します。酵母という生き物が相手なので、彼らの機嫌?も関係してくるように感じることすらあります。
グルテンが十分に形成されたかどうかの生地の弾力、一次発酵の見極めとなる生地の膨らみ具合や指で押した時の戻り具合、二次発酵完了のサイン。これらはマニュアル通りにいかないことも多く、経験に基づいた「感覚」が非常に重要になります。論理だけでは説明できない、曖昧さの中での試行錯誤が新鮮で、プログラミングでは得られない面白さだと感じています。
特に魅力的なのは、粉と水と酵母といったシンプルな材料が、発酵というプロセスを経て全く別の、香り高く美味しいものに変化する化学反応を目の当たりにできる点です。そして何より、オーブンから漂う焼きたての香りと、熱々を口にした時の幸福感は格別です。
時間と費用について
パン作りを始める際の初期費用は、それほど高くありません。ボウル、スケール、オーブンシート、そして材料(強力粉、ドライイースト、塩、砂糖など)があればすぐに始められます。これらを合わせても数千円程度で揃えることができるでしょう。もちろん、より本格的にとなると、高性能なオーブン、発酵器、ミキサーなど、数十万円かかる機材も存在しますが、趣味として楽しむだけなら必須ではありません。
時間に関しては、工程ごとに待ち時間が発生します。一次発酵に1時間、二次発酵に1時間など、実際に手を動かしている時間より、生地が発酵するのを待つ時間の方が長いのが特徴です。週末にまとめて焼くことが多いですが、慣れてくると平日の夜に生地を仕込んでおき、翌朝焼くといった時間の使い方もできるようになります。プログラミングのように集中して一気に進めるのではなく、間に他の作業を挟みながら進めるスタイルが、私の日常に良いリズムをもたらしています。
仕事とは異なる思考回路の活性化
パン作りが私のプログラミングや仕事に直接的な技術向上をもたらしたかというと、それは難しいかもしれません。しかし、間接的な影響は少なくないと感じています。
まず、失敗から学ぶ姿勢が身につきました。パン作りでは、原因不明の失敗(膨らまない、固くなるなど)がよく起こります。レシピ通りにしたつもりでも、結果が出ない。そんな時、何が悪かったのか、温度か、湿度か、こね方か、イーストの状態か、様々な可能性を考え、次に活かす。これはプログラミングにおけるデバッグ作業に通じるものがあります。しかし、相手が物理的な「生地」であり「生き物」である分、より多様な視点や仮説思考が求められるように感じます。
また、長時間集中してコードを書いた後に、手を動かして生地をこねる作業は、良いリフレッシュになります。五感を刺激することが、デジタル漬けの脳に新たな刺激を与えてくれるようです。発酵を待つ時間は、思考を巡らせる時間にもなり、新しいアイデアが浮かぶこともあります。
何より、仕事とは全く異なる分野に没頭することで、視野が広がったと感じています。コードの世界だけが全てではない、多様な価値観や面白さが世の中には存在することを再認識できます。
パン作りから得られたもの
パン作りを通じて得られたものは多岐にわたります。最も大きなものは、「ゼロから何かを生み出す」という根源的な喜びです。シンプルな材料が、自分の手と時間によって美味しいパンになる。この達成感は、ソフトウェア開発で何かを完成させた時の喜びに似ていますが、より物理的で、五感を満たすものです。
また、作ったパンを家族や友人に「美味しい」と言ってもらえた時の喜びは、何物にも代えがたいものがあります。誰かと喜びを分かち合うことで、趣味がより豊かなものになりました。
さらに、ストレス解消にも繋がっています。生地を思いっきりこねる作業は、適度な運動にもなり、日頃の疲れを癒やしてくれます。発酵中の生地を眺めていると、生命の不思議を感じ、心が落ち着きます。
読者の方へのアドバイス
もしパン作りに興味を持たれた方がいれば、ぜひ一度挑戦してみていただきたいと思います。ハードルが高いと感じるかもしれませんが、今は簡単に始められるキットや、分かりやすいレシピがたくさんあります。
まずは特別な道具は必要ありません。手軽な材料から始めて、小さな成功体験を積み重ねてみてください。最初のうちは失敗することもあるかもしれませんが、それもまたパン作りの面白さの一部です。なぜ失敗したのかを考え、次はこうしてみよう、と試行錯誤する過程そのものが学びになります。
また、一度に多く作ろうとせず、小さなパンから挑戦するのも良いでしょう。基本の丸パンやフォカッチャなどは、比較的簡単に作れます。酵母の種類を変えてみたり、全粒粉を加えてみたりと、少しずつステップアップしていくと、さらに面白さが広がります。
そして何より、焼き立てのパンを味わう瞬間を心待ちにしてください。あの香りと食感は、全ての工程の苦労を忘れさせてくれる最高の報酬です。
まとめ
私の「アキバ系じゃない趣味」は、パン作りです。論理とデジタルの世界に生きるプログラマーにとって、粉と酵母という物理的な素材、科学的な発酵プロセス、そして感覚的な手仕事が融合したパン作りは、脳の違う部分を刺激し、心身のリフレッシュに繋がっています。
仕事のプレッシャーから離れ、生地と向き合う時間は、私にとってかけがえのない豊かな時間です。パン作りを通じて得られた達成感、五感の刺激、そして誰かと分かち合う喜びは、私の人生をより彩り豊かにしてくれています。プログラマーの皆さんにとって、コード以外の世界に一歩踏み出すことが、新しい発見や喜びに繋がることを願っています。